普通に生活してる人が、脳卒中麻痺を知っている人はあまりいないと思う。だけれども 50代以降それなりに動脈硬化が進行している場合かなりの確率で脳卒中麻痺になり得る。
私は1999年4月29日脳卒中麻痺になってしまった。しばらくの間何が起こったのか全然理解できなかった。まず最初にトイレで左手がトイレペーパーに届かない現象から始まった。午前4時半である。すでに犬の散歩は終わり仕事に行くばかりの時だった。とりあえず右の手で済ませて、立ち上がると、今度は左足が動かないことを知った。右足でとりあえずソファまで行って、仕事の段取りを携帯電話で済ませ、すぐさま救急車を手配した。その時は、自分の住所を話すことも呂律が回らなくて鮮明には話せなかった。程なく救急車が来たけれども、玄関先までに、右手、右足で這う様にして助けを求めた。独り暮らしのためとりあえず、保険証と貴重品のみを持って入院となった。意識の混濁はない。けれども何が起こったのか全然分からなかった。CTスキャンと呼ばれる機械で頭の中の立体写真がとられた。これによって右脳の中央に、1.2立法ミリメーターほどの出血が認められた。これは手術を必要としないため、注射と点滴による治療によって、止血と洗浄が始まった。これ以降は薬のせいかうとうととすること約4日が過ぎた。重湯の開始が始まった。、便は出なかったけれどもおしめは装着された。おしっこは管を通されて排尿という状態になった。約10日目に集中治療室から解放され一般病棟に移った。(通常2週間を急性期というそうだ)排便があったけれども、これはすでに車椅子で自らトイレに行って用を足すことができた。初めて知ったけれども、おしりを拭く動作をするとき腰を上げ、右手だけで足りると思ったが ・左手で支えなければ倒れてしまう。そういうことか思い知らされた。結局、看護士に支えられて拭くことができた。それ以降はおしりをずらすことで拭くことを教わり徐々に両足で立てる状態になっていった。 11日以降はいわゆる機能回復運動(リハビリテーション)が始まり杖をついて歩くことか開始された。そのとき気がついたけれど、足も手も左側は筋肉は半分ほどに減っていた。かなりショックを受けた。左唇は下がり、髭だらけの顔は惨めに写った。肉体的にこれほどまで変容することに慣れていない自分がそこにはあった。常日頃肉体を鍛錬してきた。そして、健康に配慮してきたつもりであったため、このことの状態は非常に残念だった。血圧が140の 90くらいであったため特別に薬は飲まないでいた。減塩食を実行していた。ふだんの生活も規則正しい生活であって、運動は比較的していたと思う。後で知ることになるが五十代に入って、動脈硬化が進んだ場合は通常の食事では脳卒中は防ぐことはできない。アテローム(コレステロールや中性脂肪、平滑筋増殖細胞、血小板血栓 などが集まったもの)がついた動脈は血流の流れを阻害する。そのためには五大栄養素を取りつつ体質を改善し血流の流れをよくする方法しかない。15日目からは階段昇降が始まった。同時に通常の走行訓練も実行された。左腕の動きよくする運動(積み木の移動)も並行して行われた。一ヶ月目はかなりの長い月日のように感じた。その後、リハビリ専門の病院に転院することになった。作業療法、理学療法。言語療法を受けることになった。この病院では後50日過ごし付属の病院で40日を過ごした。50日で言語療法は成功した。もともと言語的にはそれほどひどくはなかったので、意識の集中ができるようになってからは比較的話せるようになった。それまでは本を読むのも思考するのも非常にやっかいな状態だった。新聞を読むようになりテレビも見ることが可能になってきた。それまでは異様に疲れていて取り組むことのできなかったことだった。完全な意識の情態とは言い難かった。例えば、電話をかける場合、電話番号を記憶できないのだ。こんなことが何故できないのかと歯がゆい思いをした。この意識の中では今後の未来の行動を決定することは困難だった。車に再び乗れるのかさえも不明だったので、任意保険の継続を断念することになり、現在車にも乗れるようになってから非常に困った事態になっている。いい誤算だが。人生観はまったく変更を余儀なくされた。これまでの仕事の継続は不可能に近い。体が動く限り75歳までは現役で現場の作業を試みるつもりだった。マイナリィティとしての障害者としての立場に強制的に立たされたのだ。これまではマイナリィティを保護し支援しようとしていた自分が対極にいるのだから愕然とする。生まれて持った障害ではないのでその落差は考えても見なかった。いつかは誰にでも訪れると言う性格の物でもないから精神的にも理解できにくいものだ。脳卒中とは分類すると脳梗塞と脳内出血とくも膜下出血があって、主な原因は動脈硬化とアテロームの付着になるだろう。引き金はこの弱い壊れやすい血管が脳の付近で興りやすい構造に人間の場合はなっている。複雑に曲がっているのだ。4足の動物は真っ直ぐなので脳で破裂や詰まりを起こしにくいのだ。これが心臓付近で発生すれば心筋梗塞となる。ものの本に拠れば誘引として高血圧、ストレス、気温の寒暖の差、あるいは低血圧などがあげられる。この兆候をとらえるには動脈硬化指数で判断はできる。血液のLDL,HDLの比から出せる。「悪いコレステロール」と「良いコレステロール」の比ということになる。(**参照、脳卒中とリハビリ***坪根亨治、渡辺淳 桐書房)コレステロール自身は人間に必要なものなのだけれども「悪いコレステロール」と呼ばれる、LDLが分解せず余分なものがHDLより一定上回った場合血管にアテロームとして付着するわけだ。
脳卒中患者に対する医療側の判断は厚生省を含めて発症から6ヶ月をめどに考えている。そこまでが治療の最大の効果が期待できる時期と捉えられており、長くても6ヶ月で退院が相場で、外来患者もその地点から保険点数が低く設定されている。詳しいことはもっと機会があれば調べたいが、できるだけ医療機関が患者を面倒を診ることのできる範囲が決定されていることだけは心に留めておいたほうがいいだろう。 通常2週間を急性期というけれどもこの間に急激な変化が起こる。感覚がなかったのが部分的に戻ったりする。1ヶ月で私の場合は転院になったのだが、この地点では意識の整理は部分的だった。同時に何ゆえこのような仕打にあわなければならないのかについても知識がないこともあり理解できなかった。医療側の原因に対する説明も高血圧を主因に挙げていた。高血圧が原因と言うのはそれだけでは不充分な説明で、そうでない人もなっているし、もっと高くてもならない人もいる。また食事の減塩を積極的にやってきたつもりの当人にとっては寝耳に水の想いしかない。せめてストレスが招いた事と理解するしか方法がなく自己の取りうる方向がストレスからの解放と言う漠然としたものになってしまっていた。(江藤淳がやはり脳卒中が原因で自殺してしまう。)年代的には50歳は若い層に入る。実際回りの患者は一回り年上以上が圧倒的で取り立てて原因を言う人はストレスかなとも取れた。ストレスがあればなるわけではないのでストレスはあくまで誘引なのだそうだ。それはともかく原因が動脈硬化でそれにかかわる血圧,血液中のLDLの多さなどのことなのだからある意味では食生活の改善が再発の予防につながる。単なる減塩では効果は薄く、血圧の上昇を防ぐことは可能だけれども積極的な血管の強化、さらさらとした血液を維持すること、血液中のLDLの一定を保つことなどのための食生活が必要とされる。ここでは5大栄養素、1日30>品目、緑黄職野菜300グラム、動植物たんぱく質80グラム、糖質、こめ2合くらい,脂質、植物油で20CC位のめどに留めるけれども実際は食品のさまざまな本を読んでその効果組み合わせに学んだらかなりの結果を期待できる。にんにく、たまねぎなどの硫化アルリ食品,血管を丈夫にするアスパラなどなど。ビタミン、ミネラルの効果的な摂取は食品からのみ可能で安全な方法がわかると思う。参考***美味しく健康をつくる本 渡邊 昌 高城順子 日本私立学校振興共済事業団****非売品(03)3813-5321
1ヶ月の精神情態と体は今から類推する限り次のようだった。やりかけた仕事を仲間にやってもらっていると言う心配と愛犬の世話を姉と友人の協力によってなされていること、自分がどうすれば良いのかと言うこれからの心配。特に自分の体がどうなってしまうのか分からない焦燥感である。果たして足は手は正常になるのかどうか。この時は気がつかなかったけれども左目はドライアイ(涙が正常に出ない)になっていて傷もあったみたい。転院後2ヶ月頃自覚できて、検査の結果さらに視野角度は25度外側が失われていた。体の左側全体がしびれた状態で感覚的には鈍痛があったような感じだった。のどは左側が物がむせる状態でこれは今でもちょっと起こる。口の中はやはり半分感覚が麻痺して味も正常に感じなかったように思う。食事の時、時々舌をかんだり口内の肉をかんで傷がついた。減塩食はこの病院で開始されたが実にまずいものだった。転院先はさほどでもなく、むしろごはんをのぞいてはおいしかった。味の感じ方が変わったと言うことでもないと思う。時はもう暖かくなり始めたころなのであの寒さの中で患側がびりびりすることはなかった。しかし、患側はしびれているので感覚がなくうっかりすると車椅子の車に触れているのも気がつかなかった。立ち上がって歩くことが可能になった時は左手は重心をふらつかせるので、右手で腹のあたりで抱えて歩いた。杖歩行は4本杖も最初使用したが1本つえにさせられ、最終的には杖無しの訓練を受けた。同時に階段昇降も進められ、手すり使用なので以外と簡単だった。リハビリ専門になる状態,点滴もない高圧釜に入ることもない転院となる。高圧釜とは2気圧くらいに酸素を閉じ込めた中で1時間ほど入っているのだけれども、これによって血液中のヘモグロビンの酸素の飽和状態を緩和してより多くの酸素を取り込むことで体質を改善するらしい。苦しいだけで効果はわからなかった。耳鳴りがしばらく残った。顔を洗うことは最初はタオルで拭くことくらいだった。それも右手でやっと絞ったタオルで右手だけでだ。患側の左は指が自由でないばかりか腕も上に上げるのはやっかいなことでたとえあがったとしても実用に耐えうる動きとはなっていない。一つ一つの筋肉が連動して動かないので力が入ってもあらぬ方向へ引っ張り合って効果を半減してしまう。内と外の筋肉がともに引き合うので物を捕まえられず、関係のない腹の脇の筋肉が引っ張るので肩は上がり細かい作業などはおぼつかなかった。右手の爪は左手では切れなかった。指の動きがついてこないのだ。これができるのは2ヶ月頃からだったと思う。無駄な力と無駄な筋肉の制限が存在すると意識できるようになり始めてからだ。こんなふうに無駄な力とまで意識始めたのは5、6ヶ月頃だが。足の動きもそれと平行してスムーズになりはじめた。患側の足も手もある地点で負荷が加わると震えるのだ。これは6ヶ月までつづいた。肩の肩甲骨が盛り上がる(ウイング)は1ヶ月頃から指摘されこれは現在も度合いは減ったが続いている。これも余計な筋肉の引っ張り合いの結果なのだ。教えられ指摘されてもそれを排除することは工夫とこつが分からなければできない。肩を押さえてもらうこととか、リクライニングの椅子に肩を当てて押さえるとか、腰の力をできるだけ抜くとかである。リハビリが筋肉の鍛錬と違うのは、パワーをつけることにあるのでなく、機能の回復あるいは維持にあるという点である。時には自己矛盾もはらみつつあるけれども、パワーが主体になれば異常な動きの筋肉をさらに増幅させる場合があるし、痛みが残ってしまう場合もある。パワーがおのずとつく場合はいつもではないのでそれなりのストレッチ運動は組み入れなければならない。特に歩行の場合は一定の過重をかけていかないと、走行距離は伸びない。速さも確保できない。段階が各自あると思うが手の場合も同じだ。動きと感覚とパワーは平行する場合がある。もてないのでは有効な動きとは言えない。感覚の戻りに拠って突然関連する動きの総合が開始する場合がある。この時もパワーがなければ役に立たない。それからパワーをつけると言う考えもあるだろうけれどもある程度の進行が総合的な動きとなって突然の動きを予定できると思う。動きは全て連動している。足だけ手だけ、体の一部だけと言うような分割したものではない。同じく良くなるわけではないが全体に関連して上昇する。私の場合はそうだった。弛まぬパワーの鍛錬は欠かさなかった。私の場合だけとは言いきれないと思うが。