KORO NO ROOM
***世界は地域共同体へ***
宗教批判として(特にオウム)
<国家イデオロギ−批判>
私達は これまでの歴史が常に 統一へ向かって あるいは カオスからコスモスへという 方向で動いてきたことは なかば必然とも受けとめてきたかもしれない. しかしながら 人間一個の この個体にとって けだしこの発展が 自らをいかなる方向にもっていったのだろう。この情報過多の世界の中で必要とする情報さえも吸収することなく.というよりもあまりにおおくの情報のため 整理することすら 困難な状況にある。 そうして、今ある世界は 実に簡単に殺戮を容易にし、又これまでの歴史の中で培われた人間の知性への冒涜を平気で 行い、依然として その荒々しい無知の傲慢さを披瀝している。(クリントンの原爆肯定を見よ) ここで改めて 地域共同体を念ずるのは過去の共同体への回顧でもユ−トピアの創出でもない。人間がこれほどまでも無知なのは 人間が自らの歴史を無知なるが故に葬り去るために生まれて来たのかとも思える。 人が人を裁いて罰するという この傲慢さを一体 人は(あるいは国家は)何の拠り所から発するのだろう。神の名において、あるいは人民、国民、民衆の名においてか! 只、単に教育という名目( 見せしめという)があったにしろ、人が人を殺すということは 結論としてはでてこない。 この地球の上で展開される殺戮に いかに辟易しているのは わたしだけなのだろうか? 無知のなせる業、あるいは人間の思い上がり以外の何者でもない。戦争、・・・・・ かれこれ人が人を憎しみ殺しあう歴史を何千年続けてきたのだろう。そして今だにその殺しのテクニックを磨きつづけるのか。! 共産主義イデオロギ−のもとに国家形成を試みたこれまでの歴史が、自らを止揚する、(つまり国家を解体する)共同体の形成がなされなかったということは 実に皮肉なことである。曰く プロレタリア−トの独裁国家。これまでになく強固な権力を維持しようとするから 自ら必然性をもって崩壊のうきめにあうのだ。 そもそも人間の全人格的形成が基本である共産主義イデオロギ−が、何故に否定されなければならなかったのか。殺戮による戦争と国家の形成こそが方向としてまちがっていた。多分レ−ニンの国家論から間違っていた。 ところで地域共同体だが、数人の人間の集団でのコミニケ−ションは可能である。しかし、何億もの人間が 互いに利害を勝手に主張するということでは 収集がつかなくなってくる。人間の歴史国家をある必要性の上に形成してきたのはそれなりに必然であった。 だがしかし、小さな集団での利害の調整では可能だったことが 大きな集団と大きな集団では戦争という殺戮で調整しようとする。 確かに経済の発展に従って これまでの不可能と思われた自然への人間の関わりが 大きな変化を遂げたことは、統一された国家の役割が他方であったことも確かであった。 しかし他方で 人間としての生活が、大家族から核家族へ、あるいは普遍的な欲求から閉ざされたいびつな生活へ、あるいは特化した人間、専門化された人間への変化、まるでバッタリ式雌鳥の如きのそれ。経済的効率のみの追求はそれ自体は本末転倒なのだ。人間の発展に寄与するためならば、人間相互が恐ろしいほど膨大なコミニケ−ションをする必要もないし、ましてや人間自体の高揚には 煩雑な知識、情報などは必要としない。当然高速で移動する必要など、限られてくる。まして人間が考え、楽しみ、動くということは、あらゆる人間の五感に必要なものをもたせなければならないのであって、知識だけとか、研究だけとか肉体労働のみとか、特化した専門知識技術に支えられたものはだめなのである。それ自身がある意味で全人格を担うものとして形成されない限り、常に弊害を伴う。 今の世界からいきなり地域共同体へ転化することは不可能である。だがしかし、世界の統一へではなく、今人間が必要としている社会へ機首を向けなければならない。 日本の現状において何が貧困かと言えば、宗教というものにすがりつくという 一部の無知、あるいは国家を形成するのに経済効率に頼ってきた反面、一度も国家の地域共同体への転化とは考えずに 人間の形骸化を促進させ、より閉そくな社会を実現させていることである。 ここでついでに宗教について述べるなら、宗教一般が、これまでの国家形成の役割を何らかの形で補完してきた代物であること。言ってみればその国家の<良心>的なもの、実はそれは恐ろしき幻影なのだが。国家が果たした犯罪と同じだけこれらは担っている。国家イデオロギ−というのも一つの宗教であるし、<ソ連>の共産主義も<宗教>にすぎない。中国の<宗教>はそれ自身がすでに幻だが。 オウム真理教等のそれは、実にオドロシキ、<下賎の宗教>そのものである。かつて統一協会なるものが金品のお布施を強要した手口以上の理屈をつけて、さらに拷問もかけるという強権まるだしである。人は何によって生き、あるいは死んでいくのか。それは確かに自己の確信が、認識する あるいは認識できないまでもそれとしてあることを 必要とする。 多分 オウム信者の多くの人は、自己の弱い確執を まるっきり 奇術によって 不動の確執と取り違えて それを人生の全てと思い違いしているにちがいないし、又、多数の上層部は自己のちっとした確執を さらに真理とまで言いくるめ、あるいは必然であるが如きを装っているにすぎない。 ここで輪廻転生説を批判しておけば、無用の<無間地獄>も一蹴されるだろう。輪廻転生が事実とすればこれまでの<魂>の数と総人口が一致しなければならないし、人でなくとも何かに生まれ変わったとして 果たしてこれまでの<魂>がはいりきる受け口が可能かどうかである。さらに今の人が では、どこからきたのだろう? 人口が人類発生以来増え続けていることすら説明不可能ではないのか。単なる比喩でしかないこの輪廻転生説があたかも一人歩きして 恫喝として<無間地獄>が生きてくるコケ脅しを嘲笑せずにおれようか。 オウムの許せないのは 先ほどのペテンに等しい確執を、人間という他人に押しつけ、あるいは奪って超然としている態度である。自己が破滅するのは自己自身の責任の範囲で結構、だがしかし、この論理は 他人の破滅を前提とするが故に許しがたい。 ついでに文化人なる諸氏にも メディアにも一言いっておけば、政治でコケ、宗教<魂というそうだ>でコケ、従って行き場のない良民よあきらめやデカダンにならないでだって! 一体何様のつもりだ。オウムの信者やあるいは政治的デカダンスにやさしくすることで中立を確保するこの強かさ! 彼ら(オウムの信者)は自己自身の道から切り開いていかねばならないはずだ。安易な自己心酔を捨てるしかない。 結論はすでに述べた。 人間の歴史は地域コンミュ−ンへの転化を開始するべきだ。これ以上の無意味の発展は只 人間の無常観を募らせるのみである。
1995/5/4
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